本屋に行くと必ず置いている『論理的思考力』系の本
僕はこういう類の思考力系の自己啓発書はあまり買わないようにしています。どうしてかというと、必ずこういう類の本を読んだ後って思考力が下がるからです(結構ガチ)。
人が思考しているのは言葉によると言われていますが、しかし、どういうことを思考するかはあくまでその人の体調や環境、精神状態や興味関心が大きく関係しているから、どうしてもロジカルな思考をしようとしてしまうと偏ったことを考えてしまいがちです。
偏った思考をしていると、人の脳は非常に気まぐれですから、その気まぐれさを無視した思考法を続けているのですから当然脳は疲弊しますし、非常に無駄な消費をしてしまいます。
ですから、あくまで人間というのは、ロジカルなだけでは思考力というものは成長しませんし、感情やそういったセンシティブな点も考慮しなければ、違和感のある行動をとってしまいがちです。
結局は三段論法どうこうよりも筋
僕は本屋で思考法や論理的〇〇系の本を見かけると必ず好奇心がわきますから、興味本位で立ち読みをしてしまいまして、いつもこう思います。
結局は話に筋が通っているかどうかじゃないか。と。
そうなのです、論理的かどうかというのは、根拠と結論が論理的にズレがなく、かつ(善悪はともかくとして)筋が通っているかどうかが重要なのです。
人は必ず無意識に社会的に善か悪かどうか、批判をくらいそうか、非難を受けないような意見を作ってしまいがちです。
しかし、果たしてそれだけで論理的に思考することができるのでしょうか?
もちろんできるわけがないんですよね。
論理的な人というのは共通点として、たいてい屁理屈な人が多いです。
屁理屈というと、語弊がありますが、少なからず、第三者から見ていると、論理的な人の意見というのは非常に屁理屈に感じることが多いのです。
つまり、なんとなく自分を正当化しすぎて、皆からは受け入れられないようなことを言っているという印象を受けがちなのです。
しかし、屁理屈というのは、理屈が通っているから屁理屈なのであって、屁理屈をこかれたほうというのは、その意見に対して筋の通った反論ができないがために負け惜しみがてら、『屁理屈だ』という捨て台詞を吐くのです。
要は、屁理屈かどうかは、その人の価値観や感じ方の部分が多く含まれているから、非常に個人で変わってしまう可能性が高いのです。
要は、筋が通っていれば、根拠と結論に整合性が取れているがために、正当な意見として受け入れられるべきだと思うのです。
そして、その意見に対してどうしても納得がいかない、もしくは反論がしたいというのであったら、その意見の根拠と結論の論理性に負けないくらいの筋が通った別の意見をもってして対抗しなければならないのです。
そして、その両者の意見というのは、筋が通っているのですから、間違いではない意見としてこの世に存在することになります。
では、どこでその両者の意見に決着をつけるかといいますと、やはりそこは根拠の部分がどちらがより強固か。
そして、最終的には、主観や価値観によって感じ方は違うよねということで、この世には二つの意見が存在したまま、一つになることはなく取り残されてしまうことになるのです。
これがいわゆる仮説として→仮説A、仮説Bとして後世に受け継がれ、仮説を見た人がどちらがより共感を受けたかで好きなほうが選ばれることになるのです。
よくサイエンスの世界や法律の世界で仮説がいくつか存在し、暫定的には仮説Aが正しいとして広まっていくのでしょう。
嫌われる勇気とは自らの根拠ある正義を振りかざすことである。
人に嫌われたくなかったら、自分が感じたことをいちいちロジカルに主張してしまっては、相手からはめんどくさい奴だな、とかこいつと話しても埒が明かないや、と飽きられてしまいますから、やめたほうがいいでしょうね。
しかし、それはすなわち、自分の正義を捻じ曲げてしまうことであって、他者に迎合している証拠なのです。
人は皆、自分の正義が存在します。
宇宙戦艦ヤマトの世界では地球人が地球を守るために正義のために何とか星人と戦い、滅ぼします。しかし、その何とか星人のほうは自分たちが生き残るためには星のエネルギーを吸収し、滅ぼさなければならないので、地球を滅ぼそうとしたことはある意味仕方のなかったことだったのです。
ですから、もしかしたら地球人が戦いに勝ったから、地球人の目線で悪い何とか星人を倒したみたいなストーリーで描かれているかもしれませんが、相手のほうからしたら強大な力を発明していた相手にコテンパンにされてしまったかわいそうな生物だったのかもしれませんね。
こういったことは歴史上でいくらでも存在し、負けたほうは異端として悪者扱いされ、後世に受け継がれていきます。そして、勝ったほうが正義であって、ヒーローが存在し、皆に勇気を与えながら見事悪役を打倒したというストーリーが作られるのです。
しかし、これは負けたほうも同じであって、もしかしたら、立場が逆転していたら、同じようなストーリーでまったく別の話が出来上がっていたのかもしれませんよね。